株式会社ビーテック 取締役部長 垰田 修平

機械・設備の販売から設計・施工まで手がける
広島の老舗企業で活躍する一方、
個人的な社会貢献活動にも全力で取り組む垰田部長。
その活動に共感する、小誌発行人・前田社長が
そのパワーに迫る。
被爆後の広島で創業した
祖父のあとを継いで
前田
ビーテックさんといえば、機械・設備の分野では老舗ですね。
垰田
弊社は1951年に、今は亡き私の祖父が創業し、今年で73期目を迎えます。祖父は1945年8月6日、19歳のときに原爆にあいました。当時の垰田家は今の平和公園の慰霊碑の辺りにありましたが、原爆で家は跡形もなくなり、祖父は母親を亡くしました。しかしそのわずか6年後に、この広島の地に工作機械の商社を設立しました。
前田
工作機械とは、わかりやすくいうとどんなものでしょうか。
垰田
マザーマシン、つまり機械を製作するための機械です。創業当初からマツダさんやその下請け会社に納入、販売していました。1960年頃からビルや工場、ホテルなど大規模施設の空調設備や、病院や精密工業などの特殊空調といった、建築設備の販売も手がけるようになりました。現在はこの事業が大きな柱となっています。創業以来ずっと機械・建築の設備商社としてやってきましたが、数年前に私の提案で、販売するだけでなく作るところからやっていきたいと、設計・施工・アフターメンテナンスを行う機電設備部を新設し、設備工事を受注する新たな取り組みを行っています。
前田
そうすると、一般消費者の方とは接点が少ない業種なのですね。
垰田
はい、弊社の新入社員にも、「見えないところで働いて、人の役に立つ仕事だ」と伝えています。
前田
陰で人々の暮らしを支えているということですね。海外事業部もあり、中国にも営業所があるんですね。
垰田
1995年に中国の大連に現地法人を発足させました。当時日系企業の中国進出が増え、既存の取引先も中国に拠点を置かれたり拡大されたりということで、私どももそれに合わせた形です。
誰もが知っている”広島“
海外での体験から国際交流へ
前田
垰田さんは日本語以外に4カ国語が話せるそうですね。海外でのエピソードを教えていただけますか。
垰田
25歳で入社して、27歳から30歳まで中国の現地法人に駐在していたので、中国語が話せます。ビジネスの場では通訳を介しますが、それ以外では現地スタッフと中国語で会話してコミュニケーションを深めます。その他、英語、片言ですがロシア語、タイ語が話せます。 以前、ウクライナのナイチンゲール合唱団が広島にチャリティーコンサートに来たことがあるのですが、最初に歌った『アヴェ・マリア』を聞いた途端、感動で電撃が走ったようになりました。話を聞くと彼らはチェルノブイリの原発事故で体内被曝し、全員甲状腺ガンだというのです。声が出にくいのに大変なレッスンを積み重ねてコンサートにこぎつけたのだそうです。それを聞いて更に感動しました。それが縁で、ウクライナのキーウを何度も訪れて国際交流や支援活動をしました。その時にカザフスタンのセミパラチンスクにも、核実験場の影響で被曝して苦しんでいる仲間がいると聞いたのです。さっそくギターを片手に現地を訪問しました。
前田
垰田さんは音楽やエンターテインメントの世界でも活動されていたんですよね。
垰田
はい。セミパラチンスクの街の中から6時間かけて、大草原の中にある村へ行くと、200人くらいの子どもがいました。日本から来た誰とも知れない若者が、ギターを弾いてよく知らない日本の歌を歌うのに、村中の人が喜んで集まってくれ、突然お祭りが始まって大切な羊や山羊を料理してくれて、大歓迎を受けました。どこから来たのかという問いに「広島から来た」と答えたんです。みんな広島を知っていて驚きました。そこで今の広島の写真を見せると、「原爆で破壊されたのに、こんなにきれいな街によみがえったのか!」と驚き、「広島を目指したい」といわれました。以来、国際交流団体「ラドゥガ(ロシア語で虹の意味)」を立ち上げて、ウクライナ、カザフスタンの子どもたちとの交流を続けてきました。
前田
先日、垰田さんと一緒に国連ユニタール広島事務所創立20周年記念式典に行きましたね。個人レベルとはいえ、垰田さんの取り組みと方向は同じだと思ったんです。
本業以外の個人活動でも
さまざまな社会貢献に取り組む
前田
会社でのお仕事以外に個人的にも、さまざまな社会貢献活動に精力的に取り組んでおられますね。
垰田
救急車と同じ車両を民間で運用する「ひろしまメディカル民間救急搬送サービス」を運営しています。例えば寝たきりの患者さんをストレッチャーで病院から自宅や施設へ移送する場合、介護タクシーは使えません。でも私どものサービスなら、たんの吸引などの医療行為をしながらの移送が可能です。救急車が急病や災害などの緊急の事例で使えるよう、出動が逼迫しないようにと思い立ち上げました。
前田
すごいですね。ほかにも子ども食堂の運営などもしておられますね。
垰田
広島市内のシェアカフェ「マール村」で、昼はランチを提供し、夕方からはその収益を使って子ども食堂として運営しています。一般の方にランチで利用してもらうだけでも、子どもたちのためになります。その他、子どもを対象とした「パイオニアキャンプ」という野外活動イベントを23年間続けてきました。
前田
私どものモットー「広島を、いい笑顔に」と通じるものを感じますね。とてもエネルギッシュに活動されていますが、その原動力は何でしょうか?
垰田
私自身コンプレックスが多いので、活動を通じて自分を磨き、全てを楽しみながらいい方向に成長していければと思っています。
前田
最後に、住まいに対する思いをお聞かせ願えますか。
垰田
今は戸建ての賃貸に住んでいます。将来的には持ち家を考えていますが、住まいを選ぶ基準は「LDKが広い」ことです。人がたくさん集まる家なので、柱のない、広いLDKが理想ですね。
前田
よくわかります(笑)。今日は大変元気づけられるお話をありがとうございました。
株式会社ビーテック
取締役部長
垰田 修平
1984年広島生まれ。株式会社ビーテック創業者・垰田明を祖父に、2代目社長垰田眞を父に持つ。プライベートでは一般社団法人・NPO法人など12の団体の役員を務める。